日野環境|クリーンな生活環境を守る

ヒストリー

 

 かつて、し尿は堆肥と共に耕作物への肥料として有効利用され、資源として大切に取り扱われていました。しかし、人口増加、都市部への人口集中、結核や伝染病の予防をはじめとした生活改善運動、化学肥料の普及など、多くの理由により、し尿は行き場を失い、廃棄物となりました。し尿は各地で溜まり溢れ、その処理・処分に困窮する事態に。それを見かねた人たちが、自主的、必然的に立ち上がり、新たに処理業を営む者が各地で誕生して行ったのです。

 

 当社の創業は、昭和34年。初代社長である日野隆がバキューム車を入手し、『大津衛生社』という屋号で創業しました。当時、大津町にはもう1社、桶で回る業者もいました。

 

 しかし、当時は仕事に対する対価が低く、し尿を処理する場所も多くはありませんでした。「始めた頃の汲取料金は、リッター当たり2円ぐらいだった」と初代社長も当時を振り返ります。やむを得ず不法投棄するケースも発生するなど、行政不在の中で、し尿の処理は全国的に無法状態に陥り、住民から苦情が出るような状況が続きました。

 そんな中、昭和29年4月に「汚物掃除法」が改正され、「清掃法」が制定。これにより、し尿処理は市町村の固有事務と明記されました。しかし、当時、多くの市町村は処理施設を持っておらず、法的な責任は明確になったものの、違法状態は続くことに。地方に処理場ができるようになったのは、昭和40年以降からです。なお、市町村が行っていたのは、業者への許可証の発行のみ。一方で、業者は許可を得る際、許可条件に処分場の明記を義務付けされ、低い対価を押し付けられていました。何の補償・補助もない中で、体制を整え、悪条件を克服し、し尿処理を市町村に代わり遂行してきたのです。


 ところで、し尿業界は大きな闘いを経て、今日に至っています。それは、「清掃事業直営化法案」を阻止した闘いです。昭和30年前後から、不法投棄に対して社会から厳しい目が向けられるようになりました。そんな状況下で、昭和38年、「清掃事業の正常化」を目的に、国会へ清掃の直営化法案が提出されたのです。そのときは廃案となりましたが、その後も同案は折ごとに表に現れることとなります。この法案が提出された経緯の中には、行政不在による無法、無秩序な業界の実態が大きく影響したことは否めません。とはいえ、「すべての責任は業者にある」との主張には、到底納得することはできませんでした。

 市町村に代わって、し尿処理に携わってきた業者に対し、ある日突然"総首切り"にするような非情な内容の法改正。佐藤守男氏(久留米清掃企業組合長)は、日本清掃協会に対して早急な対応を要請しましたが、協会は動こうとしませんでした。やむを得ず佐藤氏は独自で全国の業者に結集を呼びかけ、昭和38年3月9日、全国から集った有志117名によって全国清掃協議会を結成。会長には政治力・統率力ともに優れた永田正義氏を推挙しました。永田会長は全組織をあげて政府の清掃事業直営化を阻止することを決議し、闘争態勢を整えました。そして4月7日、国会議員に配布する予定の直営化条項を含む清掃法一部改正案を廃棄されました。

 このようにして、全国清掃協議会の清掃事業直営化阻止闘争は、大きな成果を得て終結しました。この闘いに勝利していなければ、現在のような業界はなかったと断言できます。

参考資料:「し尿と業界」(発行/有限会社環境情報)

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